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2008年11月の記事

インドに行ってきました。幸いテロが起こる前日に関空に到着していたので、何の影響も受けていません。また香港経由の便だったのでタイの空港閉鎖とも無関係でした。

滞在先はムンバイとは離れた北インドだったため、テロに直接巻き込まれることはなかったはずですが、もしインド行きの計画を1日でも延ばしていたら、何らかの事情で現地での足止めを余儀なくされていたかもしれません。

利用する航空会社が違っていたら、タイのデモ隊の影響を受けていたかもしれません。実際、インド行きの計画段階では、バンコク経由の飛行機も候補に挙がっていました。幸運なのかなんなのか、結果的にはそういったトラブルをうまくすり抜けて旅程を消化することができました。

見えない因果の糸に、常に引っ張られていることを実感します。人とのご縁などまさにそうで、今回のインドで出会った人々にしても、強いものか弱いものかはわからないにしろ、何らかの因果の糸によって結ばれたんですもん。

不当な額のオプションをしつこく迫ってくる現地ガイドに始まり、親切な駅員、電車で隣り合わせた新聞社員、お堂の演奏者、サールナートの少年、ボート屋のボス、妙なパズル売り、横柄な警察官・・・ノートに記録した人だけでも、50人。ドライバーや蹴散らした客引きなどを含めると倍にはなります。

60億いる地球人。10億以上いるインド人。その中で、2008年11月のとある一瞬に、僕と相手と、お互いの因果の糸が引き合って、パチン、と出会う。

ほとんどの人とは以後の関係はなく、それっきりで別れるんだけども、例えハッキリと顔を忘れてしまっても、池に沈んだ落ち葉のように、僕の中に溶け込んでいます。日々の暮らしの水面には出てこないけども、底に沈んで、池のほんの少しの一部分を形づくります。

ボンベイから来たのよ。ボンベイは素晴らしい街よ。ワタシと一緒にいらっしゃい、ウフフフ、と笑っていた、ベナレスのカレー屋で出会ったふくよかなおばさんは、無事かな。2人の娘さんは、事件に巻き込まれていないだろうか。

一刻も早い事態の鎮静を祈っています。

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ノスタルジックという感覚に興味があるというか、考えていきたいんです。

懐かしい、感じ。郷愁。センチメンタルというやつとも少し違う。

センチメンタルは、ノスタルジックによく内包されてますね。

ノスタルジックって、ある程度の空間が要りますよねえ。子どもの頃に見た風景とか、路面電車が通っているような町の映像とか。

例えば年代物の蓄音機とか五右衛門風呂だとか、物を単品で見ても「懐かしいー」とは思えど、ノスタルジックかというとちょっと違う。

ノスタルジックが成立するには空間が必要で、蓄音機なら相応の年代の洋間に置かれているとか、五右衛門風呂なら田舎の納屋の裏だとか、舞台が必要だと思うんです。

それと、ノスタルジックを感じる年代というのも、ある程度のところで線引きできると思うんです。

「昭和」はもう、ど真ん中ストライク。「3丁目の夕日」みたいなのは。大正、明治の後期なんかも場合によってはノスタルジックじゃないかなって思います。

江戸時代はどうかなあ。「江戸時代って、ノスタルジックだよネー」と言うには、ちょっと無理があるんじゃないかなあ。

明治はややOKで、江戸はダメ、という、ここらあたりが不思議だなあと思うんですね。

今の自分から見て、生活様式が似通っていることが条件の中にあるのかもしれないです。明治には西洋文化が入り込んでいて、「今とのつながり」が見えやすいんじゃないでしょうか。

江戸になると、一種の別世界になってしまうんでしょう。江戸以前は主に「ロマン」の領域かもしれないですね。

ノスタルジックへの感覚は、やっぱり人それぞれ違うんでしょうか。また、国や民族によっても違うんでしょうか。

例えば、元々西洋文化だった西洋の人たちは、どのあたりの時代までノスタルジーを感じるんでしょう。やっぱ違うんかな。

ノスタルジックは誰にでもある感覚なんだろうと思います。過去についての感覚です。

みんな昔の風景を見たときなどにふと「キュン」と胸になにがしかの切なく淡い感覚が走るんです。その感覚を、このテクノロジーの時代を先陣切って進んでいる人たちも持ち合わせていると思うと、面白いです。

最先端の技術を開発する人の頭の中にも、「過去への思い」は強く特別に刻みこまれている。「過去への思い」を頭の片隅に置きつつ、「未来の技術」を作ってるなんて。

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久しぶりに更新します。

アレックス・カーさんが「四季は日本にだけあるもんじゃないんだぜ」というようなことを書いてます。それから「なのに日本人は、日本にだけ四季があるように思い込んでいるよな」という風にも書いています。

日本という国は美しい四季のある、世界でも例のない国だ、というようなことを、確かに日本人はよく言います。

それが外国人にとっては鼻につくことがあるみたいです。世界の他の地域でも、自然は素晴らしいもんです。

地球上に、特に素晴らしい地域とそうでない地域がある、とは必ずしも言えません。ビルやネオン街のような人工物は別として、ありのままの自然は貴く美しいものです。そもそも美しいとか汚いとかは人間の色メガネで判断づけているような部分もあるので、あんまり言いすぎると本質を見失うのかもしれません。

砂漠は砂漠なのだし、海は海なんだし、アフリカにもヨーロッパにもアメリカにも人は住んでいて、その土地で先祖代々誇りを持って暮らしを営んできたわけなので、決して日本だけが四季があって最高に美しいわけではないです。

四季のある国もいっぱいあります。もちろん、日本人だって外国も素晴らしい場所で溢れていることを知っているはずですが、たまにそのことを忘れます。

自分の国を素晴らしいと思う気持ちは素敵だと思います。でも他所にもいっぱい素晴らしい場所があるんだぞというところを認めていないと、どこか一人よがりになりそうな気がします。

僕も日本が好きなので、もし他国の人と交わる機会があれば暑苦しいくらいに日本自慢をしたいです。けどそれは、他を認めた上で、また他と比較した上で、やりたいです。

自分の身の回りしか見ていないような、狭い視野での自慢は、下手をすると、自慢される側に対して失礼になりそうです。

こういうのって別に「日本がどうのこうの」と舞台を大きくしなくても、日常的にあてはまることだと思います。

自他の位置関係は、知っておきたいです。というか、他をちゃんと認めたいんです。

自分と、自分の身の回りの狭い範囲だけでなく、いろんな物事を見極める視点を鍛えたいです。

鍛える、ったってどうすればいいのかよくわかりませんが、まあとにかくそういうのは大事やなと思うんです。

大切なものを見失わないように、いらんものに囚われないように、もっともっと頭をやらかくせなあきませんのです。

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