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2009年4月の記事

2009 04 24

歴史の授業を逆から進めてはどうでしょうか。ちょっと本気でそっちの方がいいんちゃうんかなと最近思ってます。

現代からスタートで、さかのぼっていく。原始時代から始まる一般的な進行とは逆のやり方です。

まず「今」はこんな時代です、というのがスタートです。で、その「今」はこういう時代から移りました、と。

高度成長がありました。それは敗戦とかを受けてのことです。敗戦は帝国主義とかを受けてのことです。帝国主義は明治維新とかを受けてです。明治維新は・・・

という具合に、「結果」を提示して、その「原因」はどこにあったのかということを逆推理していくのはどうでしょう。そして、「原因」が生まれたのも、それ以前にさらなる「原因」があったのだよ、と。

遡れるのは学ぶ側の特権だとも思いますし。

今でこそ当たり前なことが、当時は全く読めてないわけで。

平家は当時まさか滅びるとは思ってなかったろうし、マルクスは共産主義がイケイケだと思っていたろうし、坂本竜馬は長崎に原爆が落ちると思ってなかったろうし、ファラオ達は日本人に墓をあばかれると思ってなかったろうし。

結果から原因へと遡る方が、因果関係が理解しやすいんじゃないかなと思いました。

そこで疑問です。

なぜ生殖器の位置はそこなのか?

なぜこんなに排泄器に近いとこにあるのかー?

結果から遡ったらわかるのかもしれない。いや、わからんなあー。

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トマトアオゥッ

最近のトマトは甘い。甘くっておいしい。

こないだも高知へ行って、産直市みたいなとこに入るとシュガートマトとかフルーツトマトとか書いてあって、いっぱい並んでる。

いい値段する。でもせっかくなので買う。隣にふつうのトマトも売ってるけど甘いやつを買う。

皮が堅め、甘さフルーティー。ここ数年よく口にするようになって、なんだかこの触感と甘さにも馴れてきつつある。

馴れていく分だけ、元来のトマトのことを忘れている気がする。そんなに甘くない方のトマトは、僕の中のトマト市場で市民権を減退させつつあるような気がする。

けど、今では「あんまり甘くない方のトマト」と余計な形容をされているものたちだけが、トマトであったということはわすれちゃいかんように思う。

シュガートマトとかフルーツトマトとかはあくまでもお楽しみで、トマトってえのは甘いような甘くないようなアイツらがオリジナルであるということを肝に銘じつつ、その上で最近の甘いやつを食さねばならぬ。

その偉大なる「甘いようなすっぱいような加減」は、今日に至るまでイタリアやらスペインやらでの食文化を支え、それによって世界中の現代人たちはケチャップだのパスタだのとトマト料理の恩恵を授かっているのだ。

オリジナルへのリスペクトを欠いては後々足元からずっこけるのである。温故知新である。根本が抜けるのである。さらには甘い方のやつの甘みも、ありがたみが半減するのだ。

・・・

トマトのことと自分なりには関連してるつもりなのだけど、こないだビートルズを聴いてると、ノリノリの曲中でジョンが「アオゥッ」ってシャウトしてた。最近こんなに典型的なシャウトは聞いてないなあと思って、新鮮だった。

ロック界では今でも「アオゥッ」はアリなのか?それとも今それやったら古いのか?

どちらにしてもロックは「アオゥッ」の大きな恩恵を陰に陽に受けてきたはずである。

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2009 04 10

孫が、お腹痛いお腹痛いと苦しそうにしている。

よしよしこっちへおいでと言って孫を抱く。

数珠で孫のお腹や背中、身体中をさすりながら、

観音経何番だとかナントカ経をあげる。

次第に孫は眠りに誘われる。

朝、起きたら、痛くない。

「これぜよ」と、高知のおばあさんは言いました。

そういうことは、あるんだそうです。

「一心込めるのはこのためよ」と。

「思うことは届いとるがよ」と。

サイエンスは否定するためのもので、立証できることなんてなんにもないと聞きます。

過去から未来へ時間は進む、これは絶対的なルールなので、

先のことを「決められる」と思うのは幻想なんかもしらんです。

というのを半分だけ持っておこうと思います。

「裏はあるんじゃき」。

その一言で、嬉しくなりました。

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2009 04 07

予測とはどこまでできるもんだろうか。

川辺の岩に腰掛ける。遠くから小舟が川を下ってくる。10秒経てばさらにこちらに近づくだろう。この予測は容易だ。

3分でちょうどこちらの正面まで進むだろう。

通り過ぎた小舟は、さらに5分後、かすむほど遠くまで下っているだろう。

これは予測できる。予測はもちろん外れるかもしれない。しかし、「外れるかもしれない」ということまで含めて、予測できる。予測できるんだ。

では、遠くかすんで、そこからさらに遠ざかった小舟は?小舟は見えない、周囲の景色も見えない、となると、予測できない。感覚器官がカバーできる認識範囲を超えると、「予測」はできなくなってしまう。

ほんとうか?

ほんとに予測できないか?

できない、って、そう思い込んでいるだけのような気が、最近するのです。

小舟は、見えなくなった先でも小舟としてある。問題になっているのは物理的な距離だけだ。たかだか物理的な距離だけの問題でしかない。

感覚器官だけに頼るから、その実体を捕捉することができないのじゃないか。感覚器官が捕捉できなくなった時点で、あきらめて切り上げているだけのことなんじゃないか。

自分の感覚器官に囚われているんじゃないか。と思うと、損してるというか、納得できないのであります。

見えることに頼りすぎて、囚われている。

聞こえることに頼りすぎて、囚われている。

小舟には先がある。先の先の先の先がある。

同時に雲が流れている。先の先の先の先へゆく。

世の中は流れている。先の先の先の先へ。

過去から先へ。先の先の先の先へ。

ぜんぜんそれを感じ取れなくて、どうにも納得できねえんだよなあー。

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