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2009年9月の記事

かま

カマキリを見た。

石ころの上で神妙に伏していた。

スニーカーでつついてみたが、動きゃあしない。

逃げもしない。

カマも振り上げない。

草色の背を蒼き蒼き天空にかざして、深い黙想にひたってる。

何の見返りも求めていない。

いついつ終えるつもりもない。

じっと見ていても仕方がないので、用事を済ませにそこを離れた。

少し後、さっきの場所のすぐ近くでカマキリを見た。

砂利の上に、滅裂になって死んでいた。

足とか羽根とかが、胴から放り出されて、散らばって。

さっきのカマキリとおんなじやつかどうかはわからない。

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おれ

このごろのおれの主成分。

ブルガリアン・ボイス。

蘇州夜曲。

オスマン・トルコ。

高杉晋作。

水菜。

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いね

こないだカカシのことを書いた。

それから2日後くらいに、ヤフーでカカシの特集が組まれていた。

皆々様、皆々summer、カカシ業界には注目されていらっしゃったようだ。

ただただ田を見張って突き立っていたカカシらが、論評の的になる。

カカシ躍進のチャンスが訪れたと言えましょう。

田によってはもう刈り入れをしている。

まだ青々と穂を伸ばす田の群れに、すっかり刈られてた田が、歯抜けのように薄い土色の地表を見せる。

刈られた田には、当然ながらカカシの姿はない。

数多の鳥の来襲を防がしめた英雄は、実り切った稲の刈りいれに紛れて、水が蒸発するように、ただ静かに持ち場を去る。

最後まで無言である。

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てつ

いもを栽培しようと思って、境内の空き地を耕した。大根や豆やらも植えるつもりで、さらに耕した。

ユンボを使えば楽なんだけども、やっぱりクワを使う。腰が痛い。

鉄って素晴らしい。鉄が伝来するまでは、木製の農機を使って土を耕していたそうである。「鉄器の伝来によって生産高が飛躍的に上がった」というようなことは教科書で習うけど、そりゃあ当然だと身に染みて感じる。

どこかからもらってきて納屋で眠っていた古いものとはいえ、僕が耕す道具は鉄製のクワである。三本の鉄の歯をもってしても、固まった土を耕すのは一苦労であった。なのに、木なんぞであの亀の甲羅のように硬い地面をほぐすなんて並大抵じゃない。鉄バンザイ。

クワとかカマとかアナログな道具たちは、現代のような機械化された農機の、いわばご先祖さんにあたる。生物みたく、いろんな分野での進化系図があったら面白いのになと思う。クワが何千年も前からあって、エンジンが近代に誕生して、車が生まれて、そいつらが融合して耕運機ができちゃった、みたいな。

パソコンのご先祖さんはなんでしょう。近いとこではワープロか。ちょっと前に電卓なんかも生まれた。コンピューターの一番最初は、アメリカのなんとかいう企業が、戦艦の砲門の適切な角度を算出するために生み出されたものらしい。そういうの同士が掛け合って、新しい型が生まれる。進化の系図が、なんにだってある。

とにかく僕は野菜を植える。ゆがんだっていいから大根を植える。鉄バンザイ鉄バンザイ。土を耕した日は、ビールがうめい。

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めも

森博嗣さんがだいたいこんなこと言ってはりました。メモっといたほうがええかなと思い、メモります。解釈まちがってたらすいません。

テレビ好きな人たちがテレビ業界に入って、業界を作ってる。

本好きな人たちが本業界に入って、業界を作ってる。

それらにとても興味があって好き、という人たちが集まって、その業界の中心になってるから、「それを嫌いな人たち」の気持ちがわからない。

だから衰退すんだ、というようなこと。

例えば「テレビが好きな人たち」は、それまでのテレビが好きで入ってきてるので、その理想的モデルを元に制作してるから、どうしても創造性に欠ける。

「理想的なテレビ像」を追いかけるあまり、欠点を埋めるようなことに執着しがちなんだけど、ともすればいわばマニアックになりがちで、少し冷静な視点で見られたときには大して差がないように思われてしまう。

「このごろのテレビ、みんな代わり映えしなくて退屈だあ」と言われるのはそういうことから起こる。本でも音楽でもファッションでも同じなのかもしれない。

テレビが無かった時代に、なにも無いところからテレビというものを作り上げ育て上げて行った人々には、理想的モデルにすべきものからして無かったから、だから独創性の強いものを産み落とすことができた。何をも踏襲する必要がなかったんだ。

もちろん不完全な点はいくらでもあったんだけど、欠点であると同時にそれが面白さのひとつでもあった。完全なものはキレイだけど退屈しちゃうんだ。

理想的モデルに引きずられた先に、キレイに仕上げたところで、それは「好きな人たち」だけの価値観ではすごいことなのかもしれないけど、一般的に見れば些細なこだわりでしかないのかもしれない。

それをしているうちは、過去のパイオニアが残した印象を凌ぐことはできない。こんなのを、第二世代のジレンマという。

作ってる人たちのこだわりの先に、受け手の人たちがホントに求めてるもがあるのか?

受け手としても、呆然と受けているだけじゃなくて、しっかり自分の身に合ったものを選別しねえといけん。

ぶちやぶろうぜー。やーやー。

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