カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

お知らせ

このブログを開設して1年と少しが経ちました。

今後のオンラインでの活動を、さらに建設的なものにしてきたいと思います。

つきましてはその準備のため、勝手ながらしばらくの間更新を不定期とさせていただきます。

新たなスタートの際には、改めて報告させていただきます。

よろしくお願いいたします。

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再び

寒いですね。

EVISBEATS氏、夛田圭吾氏との対談から一ヶ月

よろしければまた読み直してみて下さい。

新しい発見があるかもしれませんよ。

対談「感性、どこいきますか」

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大人の解釈

昨日の古事記に関連してですが。

本居宣長が言った言葉に「何ぞ神代の事は神代の事として見ざるぞ」というものがあります。古事記の中のエピソードはいろんな解釈がなされ、「この登場人物はだれそれがモデルになっている」とか、「この場所は今でいうどこそこに当たる」とかいうように、俗世界にあてはめて語られることもよくありますが、神話は神話、神代のできごとであって、古事記の中で語られている通りに受け止めましょう、ということです。

なんか、痛い所を突かれた気持ちです。神話だけでなく、日常にあふれる、例えば映画であったり、小説であったり、人との会話でさえ、どこか冷めた視点で見てしまう。大人ぶった解釈をしてしまうんです。でもそうだ、そういうのロマンがないなあ。

もっと素直になろうと思いました。そのほうが世の中何百倍も楽しいぞきっと。

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古事記教室

先日、松山で古事記の勉強会があり、参加させていただきました。とあるおうちのリビングで月一回行われている会で、今回の参加者は僕を入れて9人と先生でした。

先生は80歳を越える女性でしたが、はっきりとした口調でお話して下さったし、きちんと筋道を踏んでわかりやすく解説して下さいました。たいへんためになるお話で、また参加させていただきたいなと思っています。なにぶん松山まで少々距離がありますので、都合が合えば、ということになりそうですが。

古事記が書かれて1300年ほど経っていますが、今現在でも、読めば不思議と心に染み渡ります。いつの時代になっても日本人の体に馴染むように、上手く作られているんだなと感心します。意図してのことかどうかはわかりませんが、ほんとうに上手くできているなあ。

いまからさらに1000年経っても、その時の読者の心に染み渡るといいなあ。

何もかも激変していく世の中ですが、変わらない、普遍的なものの価値も、見失わないようにしたいものです。

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実験中

自己分析って、ほんと、自分ではできているようでなかなかできていないもんですね。他人様に言われて「ハッ、ほんとうだ」って気づくことがしょっちゅうです。ほとんど毎日じゃないかなあ。

僕はこのごろ、自己分析を自分であんまりしなくなりました。他人様がけっこうやってくれるので。なんでしょう、無責任な印象を与えてしまいそうですが、でもそういう心境なんですね。

もちろん、他人様のご指摘通りに自分を作っていてはいけません。そんなのはただ演じているだけですもんね。けど「ここは」っていう核さえしっかり持っていれば、芯さえブレなければ、あとはどんなふうに自分を変化させてやってもOKなんじゃないか、という感覚なんです。

少々のことなら、なんだってやるよ、っていう、一種のゆとりとでも言いましょうか。「自分はこうだ」ってあまり決めつけないスタイルが、自分にとっては楽なのかもな、と気がついたのかもしれません。

ただ今、いろんな自分を試しています。どんな作品ができるんでしょうね。

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全体像そっちのけ

先日初めて陶芸をしてみました。マグカップとちいさな植木鉢をひとつずつ作ってみました。素焼きが上がってきましたが、マグカップなんて妙に分厚くてずっしりし過ぎたみたいです。いやあでも、ものを作るって楽しいですね。

友達と3人で行ったんですが、ものづくりって性格が出るなあと改めて感じました。僕はどうも、細かいところを気にしすぎるようです。普段は割と大ざっぱだと思っていたんですが、そうでもないようです。

というか、全体像は大ざっぱなんだけど、小さい一部分がすごく気になるみたいです。しかも、他の人にとってどうでもよく見えるようなところが。全体のデザインだとか、取っ手の補強とかいった肝心カナメの部分はそっちのけで、ちょっとした膨らみ加減だとか、隅っこの模様の間隔だとか、他の人が見れば「どうでもいいじゃないか」っていう部分が気になってしまうんですね。

で、大事な部分は最後になってちょっと修正するだけで。陶芸だけでなく、生活もそういう具合なんだろうなあ。大きな部分、全体像は二の次で、細かいところから目をやってしまう。そういう生き方をしているなあと、陶芸で気づかされたのでした。

いつの間にかこのブログも、開始して1年が過ぎていましたー。

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デジイチ

デジタル一眼レフカメラを買いました。中古ですし、一眼レフ入門用です。試しにいろいろ撮ってみましたが、おもしろいですね。今まで使ってた普通のデジカメも、それはそれで快適に撮影できてたんですが、またひと味もふた味もちがった写真が撮れます。使いこなせられるように、練習しよう。

前々から欲しくって、どの店でどの機種を買おうかもある程度絞っていました。それで、よし買うぞ、と昨日の夜カメラ屋さんに電話をしたら、営業時間が思っていたより早かったようで、電話をしたときには、もうすぐ閉店ですよという頃に差し掛かっていました。

けど親切な店員さんで。ちょっとくらい大丈夫ですよ、と言って、待っていてくれました。閉店して10分くらい経ってから僕が到着すると、正面はシャッターが下りていたので裏口からお店に入れてくれて、カメラの説明やサービスの説明を、平常と同じように詳しくしてくれました。周りでは他の店員さんがいそいそと閉店作業中で、僕は申し訳ないやらありがたいやらで小さくなっていました。

そんなわけで、一台、お買い上げ。このカメラとご縁があったんだなと思って、大事にします。小窓もあんまり更新できてませんが、こいつで撮って、アップします。

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自分に洗脳される

ほんとにほんとに知らないことばかりだし、見ている世界が狭いなあって自分で思います。

「多くの人が、知らず知らずのうちに自分に洗脳されている。相手が自分と全く同じ思考回路、全く同じ感性の自分自身だからタチが悪い」というような文章を読みました。何かのビジネス誌に書いてありました。

思い込みはなるべく断ち切って、自由な思考、感性でありたいと思っているつもりです。自分は自分らしく、自らの人生を漂いたいです。けれども時に、自分勝手な限界を定めていたり、自分の中に勝手に作った常識を他人様にもあてはめようとしていたりします。

僕はロクに会社勤めの経験もないし、お店を経営したこともない。工芸品の製造者でもなければ農水産業で生計を立てているでもありません。

何にも知らないくせに、でもどこか自分勝手なモノサシで他人様のことを測ってしまうことがあります。自分の勝手な常識と照らし合わせて、「そういうの、おかしいだろ」とか言って非難したりします。人の気も知らないで、ねえ。

そういうときって、きっと勿体ないことしてるんだろうなあ。知らないことを、知ってるつもりで判断するんじゃなくて、謙虚に受け入れることができれば、自分の幅が即時に広がるんじゃないかなって思うのです。せっかく新しい思考や感性に触れることができるのに、知ったかぶりはその機会を逸するのみです。その上に非難なんて、あああ勿体ない。

いろんな未知の物事にどんどん触れて、自分の幅を広げたいですねー。

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ご指摘

職業柄、ということもあるかもしれませんが、お年寄りからなにかとご指摘を受けます。いろいろと教えられる中で、自分はほんとに知らないことが多いし、気配りや心配りに欠けているなと感じることもしばしばです。こういうときはこうしなさいよ、と言われて初めて気づくことがたくさんあります。

そりゃあ中には、そんなに厳しくしなくてもいいじゃないか、って反発したくなるようなこともありますが、えてして向こうの言い分は筋が通っており、結局は反省せざるを得ないのです。言われたときはムッとするけども、後々になって、教えてもらえてありがたいなあと思うわけです。たいへん自分の身になることですので、ありがたいです。

特に人間関係については筋が通っている人が多いです。あいさつであったり、礼儀であったり、自分はほんとうに簡略化しているんだなと気づかされます。簡略化もただ悪いわけではないと思いますが、基本をしっかりわかっていての簡略と、簡略がいつの間にか当たり前になっているのとでは違いますし。昔の人はいろんな面で気を遣っていたんだなと感心することが、このごろ多いですね。

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使うと使わないの違い

ブログもやっているので当然毎日のようにネットにアクセスします。けどまあ、いつも見るサイトなんかも多くはないし、それ以外といってもたまに何かを調べる程度で、仕事でインターネットを使う人などに比べればはるかにアクセス時間は短いと思います。

けど、滅多にネットを使わないという人や、全く使わないといった人も周囲にはたくさんいます。お年寄りなんかみんなそうです。そういった人たちとは、見えてる世界が全然違うように感じます。

ネットを使わない人は、ネットを使う生活というものをまったく知りません。できるとしても想像することぐらいです。ネットを使う人は、ネットが普及したのもここ数年ですし、使わない生活というものを知っています。この違いは忘れてはいけないような気がします。少なくともネットを使わない人と話すときには。

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西洋野菜

料理はできないんだけど、野菜を育ててみようと思います。キュウリとかトマトとかもいいけれど、どうせなら変わったものが面白いかなと思って、西洋野菜にチャレンジすることにしました。ネットで種屋さんをみつけたので、いろいろ注文してみました。

イタリア料理なんかに使われる野菜の中には、聞いたことのないものもたくさんありますね。日本でも簡単に育てられるものが案外たくさんあるみたいなので、いろんな種類をほぼ無造作に取り寄せることにしました。いっぱい収穫できればいいなあ。今年は本場ヨーロッパのサラダを食べる機会が増える。はずです。

去年はいくつかの花の種をまきました。どれもまずまず発芽して育ったので、野菜の種もできそうかなと。春が待ち遠しいなあ。

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渓谷

高知県は仁淀川町に行ってきました。今日もいろんな人といろんなお話をして、とても有意義に過ごすことができました。案内していただいた仁淀川町の2つの渓谷は、どちらも美しい自然が溢れる場所で、澄んだ空気と澄んだ水が穏やかに流れていました。渓谷が眠る冬の姿も趣がありましたが、春、夏、秋の姿も見てみたいです。またきっと行くことになると思います。

安居渓谷への道中では、山村の集落をいくつか横目にしました。人々は太陽とともに目覚め、闇夜の中に眠り、自然とともに静かに暮らしています。都会とはまるで別の国です。いろんな生活があって、いろんな幸せがあるということを、つい忘れてしまっているなと気がつきます。まだまだ物の見方が、狭い。

これから年月を経るにつれ、今当たり前にこなしていることに加えて、するべきことや乗り越えるべきことが増えてくるのでしょう。それがいつも安全にできるとは限らなくって、それにともなう危うい場面やきわどい経験を踏まなければならないのでしょう。

そんな中、きっと僕は迷うし、知らずのうちによからぬ方面へ足を向けてしまうけもしれません。それを、あるべき方向に向きなおさせてくれるのは、自分の周囲の何かなのでしょう。周りの人との会話で気づかされたり、自然が投げかけてくれる何かがあったり。神様仏様を拝むのも、ひとつには自分をさらけ出して、正直に見つめなおすことだと思います。

おごってはいけない。自分のまわりのもの全て、鏡であると思わねばならない。ありがたいことです。そのことは、ほんとにほんとにいつも胸の中に持っていなければいけないなあ。と、そんなことを思わせてくれた一日でした。ありがとうございました。

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誕生日

座談を日々更新しているうちに誕生日が過ぎてしまいました。昨日、1月28日でめでたく27歳になりました。松坂世代です。安穏と27年の歳月を重ねてまいりました。26歳も27歳も28歳も40も70も人生に一回だけですので、さしあたって有意義な27歳を過ごせるようがんばります。

今年は身辺が忙しくなりそうです。今年から4月には石鎚神宮藤祭りを行います。本殿前の藤棚も年々見ごたえが出てきましたので、開花に合わせて藤祭りをはじめいろいろな催しを予定しています。もちろん、5月5日には大祭があります。

そして今年は「藤の花フォトコンテスト」を計画中です。大賞には温泉旅行を予定しています。我こそは、と言う方はどしどしご応募下さい。詳しいことがまとまり次第、こちらでもお知らせします。

秋には芸術祭を予定しており、数組の音楽アーティストさんのライブを予定しています。まだまだ先の話なんですが、今からなにかと準備があります。一年の予定を組んでいると、もう年の瀬の気分です。まだ1月なのにね。

私事ではありますが、春に結婚いたします。より一層精進です。というわけで、さて、どんな27歳になるのでしょうか。ブログも2月で1周年です。もっともっと建設的な方面に展開していきたいですねえ。

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郵便物

先日、とある郵便局で、郵便物の出し方について尋ねて、その通りに出してみたところ品物が家に戻ってきました。急いで出さなければいけないものなので、もう一度郵便局の窓口に行ったのですが、今日は土曜日だったため先日出し方を尋ねた局は休日で、地区の本局のようなところの休日窓口に行きました。

品物が戻ってきてしまったのは、先日応対してくれた人の説明不足だと僕は思っています。ですので、今日行った本局の人にそのことをクレームとして伝えました。先日応対してくれた人とは別の局ですし、別の人ですが、仕方がないので「こんな行き違いがありましたよ、説明不足ですよ」とその人に言いました。

その人は「どの局のなんという職員か言っていただければ、注意しておきます」と言ってくれましたが。僕は何か違うなあと思いました。「どこの誰かなんて関係ない、日本全国の職員さんの問題です」というようなことを伝えました。説明不足だった人、ひとりに伝えたところで、別の人が同じ間違いをしていてはどうにもならないと思ったからです。今回はたまたま僕がそういう目にあったけれども、似たようなことが日本中であるのだろうなと思うからです。

僕と、先日の人との間だけで解決したって、ただそれだけのことでしかないですから。「どの局のなんという職員か」なんて、済んだことなのでもういいんです。これから他の誰かが同じ目に遭わないように、日本全国統一してほしいだけです。伝わったかなあ。

EVISBEATSさん・夛田圭吾さんとの座談、さて、明日からアップしますよ。毎日、午前中にはアップします。10日くらいかけてゆっくり更新していきます。進むほどに味わい深くなる中身ですよー。

座談~感性、どこいきますか~

その1・変わりたいですか

お楽しみに。

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またプラネットアース

「NHKスペシャル・プラネットアース~生きている地球~」のDVDを観ました。先日もプラネットアースの別の章を観たばかりですが、面白くてついまたレンタル屋さんで借りてしまいました。

地球上のいろんな場所に生きているいろんな動物たちが登場します。サバンナ、ツンドラ、砂漠、熱帯雨林、あらゆる場所で生命の営みが行われています。

「熱帯のジャングルの中、求愛のダンスを踊る鳥がいます・・・ゴクラクチョウです」というふうにナレーションが流れ、密林の中で飛び跳ねている鳥がクローズアップされて、その姿の近くに「ゴクラクチョウ」という字幕が出たりするわけですが、名前なんて勝手に人間が決めたものなので、あまりとらわれたくないなと思って観ています。ゴクラクチョウは自分のことをゴクラクチョウだと多分思ってないですからね。

「リカント」にしても「ユキヒョウ」にしても「コウテイペンギン」にしても、人間の目線でもってつけられた名前で、自然界に入ると何の意味も効力も持たないんじゃないですかね。DVDを観ながら、分類だとか定義だとかそういうものを超えた自然界の風景を味わっているつもりです。すごく貴重な映像もたくさんあるし、映像技術もたいへん素晴らしいです。

EVISBEATSさん・夛田圭吾さんとの対談、編集中です。いろんな考え方があるなって、編集しながらもたくさんの発見があります。日曜日から始めます。お楽しみにー。

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新企画やってみます

ブログでちょっと変わったことをやってみようかなと思います。対談です。

先日、EVISBEATS(エビスビーツ)さんと夛田圭吾(ただけいご)さん、そして僕とでいろんなお話をしまして、そのときの様子をご紹介したいと思います。エビスビーツさんはトラックメーカー・ラッパー、圭吾さんはグラフィックデザイナーです。耳で感じるものと目で感じるものとの違いはありますが、どちらも人間の心に届けるものということでは共通する部分がたくさんあるように思います。お二人ともとても個性的な方で、作品も人間臭さに溢れています。

そんなクリエイターのお二人は日ごろどんな考え方をしているのか?

どんなふうに物事を捉えているのか?

二人揃うとどうなるのか??

そういうのがちょっとでもわかれば面白いかなと思って、3人の会話を録音してみました。硬い雰囲気じゃなく、喫茶店での軽いフリートークです。「うーむ」と「へえー」と「わはは」が入り乱れた内容になりました。おもしろいですよ。

ただ今編集中。日曜から数回に分けて更新予定です。

新企画。乞うご期待。

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化学反応

人と人とが接触すると、化学反応が起きますね。ここ数日いろんな方とお会いして、お話しました。そしてたくさんたくさん化学反応が起きました。

誰かと話をしていて「へえ、そうなんだ」とその人について新しいこと知ると、同時に自分の中の新しい何かを発見しているような気がします。人の話を、自分に置き換えたり照らし合わせたりしているからですかね。とにかく、接触する前の自分とは大なり小なりどこか変わっています。自分でもわかるので、とっても面白いです。

新しく出会った人との会話でも、長いつきあいの友達とのおしゃべりでも、重ねるごとに自分の中の何かが磨かれていくように思います。ありがたいことです。自分がそう感じるように、もしも相手にも感じてもらえていたなら、もっと嬉しいなあ。

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豚にはなりませんし。

福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」を、やっと読み終えました。生物学の本としても素人にもわかりやすく書かれていて面白かったけど、構成のアイデアが素晴らしいですね。「生命ってどういうものか」を追い求めて、現近代の生物学に携わった主な研究者たちと彼らによる発見、そして生物学者であるご自身の体験を紡いで、ひとつのストーリーとしてまとめられています。

まるでSFサスペンスを読んでいるように、たくさんの登場人物や、微生物や細胞たちが引き起こす謎。読んでいるうちにいつのまにかミクロの世界に引きずりこまれていました。言葉選びや描写のセンスもすごいなあ。こういう進行の仕方ができるなんて、意外すぎて舌を巻くばかりです。

生命、っていうとらえどころのないものを追いかけていると、どういう視点で物をみたらいいのか段々わからなくなってきました。お医者さんなんかはどういう物の見方をしてるんだろうなあ。

生物は水とかタンパク質とかでできています。僕もそういうものでできています。でも豚を丸ごと一匹食べても豚にはならないし、魚を100匹食べたところで魚にはなりませんし、泳ぎが上手くなるわけでもないですし。だからといってそういうものを食べても何も変わらないかというと、変わります。

変わらなければ生きていけない、生きていくために変わっていくのです。生きるとは変わることなんです。

だけど普段そんなことを思って生きてはいないし。いったい何がしたいんだろうなあ。

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オレ会議

先日書きました「オレ会議」ですが、今日やってみました。なかなか実りある会議になったかと思います。会議と言っても自分ひとりだけですけどね。

1時間、と時間を決めて、机の前に座りノートとペンを構えて、日ごろ頭の中で雑然としているものをジャンル別に整理していきました。頭の中で考えているだけのときって、じっくり考えているようでも堂々巡りになっているもので、いざ書きとめたり人に話したりというように外に出してみると案外大した量ではなかったりするものです。今日まとめたこともずっと頭の中で練っていた割には、書き出してみるとそう大した量ではありませんでした。

メモが大事だとか、思索はたまにやった方がいいという話はよく聞きますが、考え事のためだけにわざわざ時間を作ってじっと机に向かうのって時間が勿体無いような気がして、なかなか今まで出来ませんでしたが、今後も適度にやっていこう。頭の中でハッキリしないままいつまでも練っているより、一旦形に出したほうがかえって実行に移しやすいんでしょうね。

もちろん思索ばっかりでもいけませんし、頭の中で練るのも大事です。そして実行も大切です。自分なりのバランスを見つけよう。

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具体的な夢

三が日にお参りに来られた、とあるおじいさんがいました。知り合いではないのですが、ちょっとした挨拶から世間話になりました。今年は大きな目標が2つあるそうです。

ひとつは「こんぴらマラソン高齢者の部で完走すること」。もう何年も連続で完走を果たしておられ、今年もその記録を継続させたいということでした。多分80歳前後とお見受けしましたが、一見しただけでは周りの同世代の方とそう変わりません。随分お元気なんだなと思いました。

もう一つは「NHKの番組に出演すること」。昨年までにいくつかのテレビに出演されたのだそうで、今年はNHKに出たいのだとおっしゃっていました。どういった形での出演なのか詳しくはお聞きしませんでしたが、どうも高齢者への取材という形でということのようです。

歳をとっても、具体的な目標や夢を持てるというのがすごいことのように思えました。「健康」「長寿」という願いももちろんですが、より細かい願いを掲げるのも、それが生き甲斐になったりするのかなと思いました。

無断で紹介させていただきましたが、純粋に応援したい気持ちでのことですのでどうかご容赦下さい。夢が叶えられますようお祈りいたしております。

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プラネットアース

「NHKスペシャル・プラネットアース ~高山 天空の戦い~」のDVDを観ました。アンデス、ロッキー、アルプス、ヒマラヤなど世界の大山脈と、そこに棲息する動物たちの様子を収めたものでした。

極限の環境の中で、誕生と捕食、生と死が淡々と繰り返されていました。そういう事実にあらためて出会うと、人間も動物の中のひとつの種族だということを普段すっぽり忘れているな、ということを思い起こさせられました。

道具を使わずに、火も使わずに、服も着ずに、人間以外の全てのように、生身の体ひとつで、どこまで生き延びることができるのでしょう。日ごろ「自分と向き合う」という類の言い回しを用いたりしますが、本当の意味で向き合うには、まず生身の動物であることに立ち返らねばならないんじゃないかなあ。

寒くたってストーブもない、食べるのだってコンロはない、靴も履かない、何か切るにしてもハサミなんてない、工場の音も車のエンジン音も商店街のBGMもi-podもない、まわりには自然しかない。あくまでもベースはそういう状態なんですよね。人工物はその上に乗ってるものだっていうのを、忘れていました。

NHKスペシャル、もっと観たいです。

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ウソ何個、オレ会議

ウソ、って去年はいくつのウソをついたんだろう。今年はいくつウソをつくだろう。三が日が終わりましたが、どうだったかな、すでに1つや2つのウソをついたかもしれない。試しにカウントしてみると、今年の大晦日にはどれくらいの数になってるんでしょうねえ。

広い世の中、1年間0個で通せる人もいるんでしょうね。多い人っていくつくらいになるんだろう。僕は0を目指して頑張ってみよう。ウソついたら面倒ですからね。

あと、ウソとは全然関連性のない話ですが、「オレ会議」というのを開いていこうと思います。一人で会議するんです。通常の会議のように、「この日のこの時間はオレ会議」と日にちと時間を定めて、その時間は一人で自分のいろんなことを決めたり、反省したりします。

何かをしながらではなく、静かなどこかで紙とペンを用意して、あれこれ考えるというだけの時間を作ろうと思っています。いわゆる「思索」ですね。特にスケジュールとして思索の時間を設けるなんて今までやったことはなかったのですが、自分の方向性を見失わないためにもやってみようと思いました。

三が日が終わりましたね。楽しいお正月は過ごせましたでしょうか。

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年間計画

年が変わったというだけで、なんというか、「自分も2008年の人になったんだな」という気分になります。実際は2日前と何にも変わっていないのに、ずいぶん違う場所に生きているような感覚だから不思議です。

1年分くらいの自分の変化はそうでもないですが、5年前6年前と今とを比べると考え方が全然違うなあって思います。何であの頃はあんな考え方しかできなかったんだろうって。けど仕方ないですね。年を取るってそういうもんなんだと思います。

2009年、2015年、2030年、2050年・・・一体そのとき僕はどんな考え方で生きているんだろう。いつまでこの世で生きてますかねえ。

今年は年間の計画を立ててみようと思います。思えば今までそういうことはしたことがなくて、いつも行き当たりばったりの気ままな過ごし方をしていましたが、今年は一本芯を定めて、行き先がぶれないように過ごしてみよう。

皆様はどんな抱負をお持ちでしょうかー。

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あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。

平成20年が皆様にとって幸多き年になりますようお祈り申し上げます。

本年も毎日更新してまいりますので、

宜しくお付き合いいただけますようお願い申し上げます。

元旦

※新年祭は本日午後1時開式です。

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ありがとうございました。

今年も残すところあと数時間となってしまいました。

どうぞ残りの平成19年を、楽しくお過ごし下さい。

また、平成20年も素晴らしい年にして下さい。

今年一年どうもありがとうございました。

※石鎚神宮新年祭は、元旦午後1時開式です。

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あといちにち

この冬初めての雪が詫間町にも降りました。明日は積もるかもしれないそうですね。お正月はどんなお天気になるんでしょうか。

寒いのは苦手なんです。スポーツしたり、汗をかくほど体を動かすのは楽しいんですが、ちょっとした移動とかちょっとした作業とかがおっくうになりますね。けど今日の寒さはなんだか心地よかったなあ。年の瀬の、気品のある寒さだったように感じます。

街が静かだからでしょうか。工場地区からの煙もないし、トラックも通らないから車の音もあまりしません。けれど、だからと言って人が全く出歩いていないのかというとそうでもないのですが、街全体を覆う雰囲気が落ち着いているように思えます。数十時間後にやって来る新年を迎えるために、街がこっそりカウントダウンしているような静けさです。

今年一年、あんなことやこんなことがあったなあとゆっくり振り返ってみたいのですが、なかなかそうもいかず、毎年お正月の準備になにかと気ぜわしいうちに年を越しています。

皆様はどんな一年をお過ごしでしたでしょうか。平成19年もあと1日。来年も良い一年でありますように。

※石鎚神宮新年祭は、元旦1時開式です

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今年を、漢字一字で

昨日は管理画面へのアクセスに不具合があり更新できませんでした。

僕における今年一年を漢字一字で表すと何だろう。いろいろ考えたんですが

「試」

がしっくりくるなという感じです。ずるいかもしれないけど、もうひとつ挙げさせてもらうなら

「備」

ですね。今年はいろんなことを試した年だったなという気がします。もっと本格的にやりたいことというのがあって、それはまだ始める時期ではないと思っています。けれど、そのやりたいことに繋げるために試行錯誤したという一年だったと思うんです。

このブログもそういう「試」のうちの一つです。もっと深く、大きく、形にしたいものはまだ先にあります。その前段階として今年は試し、そして備えてきたのかなと、振り返って気がつきました。

さて、来年ですが、いつまでも手探りではいけませんので、やりたいイメージを形にしていける年にしたいですね。「動」に持っていければいいんだけど、来年もまだその時期ではないと思います。「試」「備」から「動」に変わる中間の、「移」という感じの一年にできればいいなと思っていますね。「動きつつあるな」と、周りの方々に感じていただけるようにできれば上々だなあ。

ちなみに今日で300回目の更新になります。明日からもがんばるぞー。

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トイレ

トイレについて最近思うことがあります。僕は、洋式と和式では圧倒的に洋式が使いやすいです。イスに座るのと何ら変わらない体勢を取れて、和式みたいに足を折りたたんで踏ん張らなくてもいいからです。他の人はどうなんでしょう。

洋式派の僕ですが、和式しかないならばそれはそれで対応できます。子供のころは家のトイレは和式でしたので、使い方は十分身についています。けど近頃は家にしろ店にしろいろんな施設にしろ洋式の割合が増えているのではないかと思います。ですから今の子供たちの中には和式トイレの使い方を知らない子も多いんじゃないかなと思うんです。

和式が基本にあると、洋式に対応するのは簡単ですが、洋式しか使ったことがないと和式に対応するのは難しいんじゃないかなあ。あくまで想像ですが。

これからトイレはどうなるでしょう。和式トイレの需要はどれくらいあるのでしょうか。介護のことなんか考えると、やっぱり洋式の方が利便性が高そうですよね。和式トイレが見られなくなる日が、いつかやってくるのでしょうか。

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名家

落語に「八五郎坊主」という噺がありまして、題名のとおりお坊さんの噺です。取り得が何もない八五郎という男が、お坊さんになろうと決心する噺です。

桂枝雀さんの「八五郎坊主」の中で、八五郎が甚平さんに諭される場面があります。

「昔、和泉の国、飯野佐太郎(めしのさたろう)というお人がな、お便所に落ちているご飯粒をば、これは勿体無いと言うて食べるような暮らしをして、一代の大金持ちになられたということを聞いたことがあるぞ」

和泉の国というのは大阪府南部の地域のことで、僕の生まれ育った泉佐野市もこの地域です。飯野という姓は泉佐野に多くあり、僕の知人の中にも何人かいます。その昔、この地方で大変な名声のあるお家柄だということは小さな頃から耳にしていましたが、まさか落語にまで語られているとは思わず、先日CDを聴いたときにびっくりしたのでした。

「誇らしい」というほど大袈裟なものではありませんが、とても嬉しく思いました。落語には教訓としていろいろな人物が語られます。地元の名家がそこに紹介されていたということに、同郷の人がテレビやラジオに登場するのとはまた違った嬉しさがありました。

地元の人だけが知っていることではなく、桂枝雀師匠が落語で語るほど有名なことなのか、と、あらためてすごい一族なんだなあと思いました。

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年越し○○

香川県に来てびっくりしたことのひとつに「年越しうどん」があります。初めのころは違和感がありましたがもう今では慣れてしまって、年越しそばだとかえって収まりが悪い感じがします。香川にいるとだんだん普通に思えてくるもんですね。

他の地方にも「年越し○○」はあるのかな。と思って軽く調べたところ、沖縄では「年越し沖縄そば」を食べるんだそうです。それ以外の地域にもあるのでしょうか。そばを食べるのは、細く長く達者に暮らせるように、という縁起をかついでのことなんですって。

揖保の糸で有名な兵庫県たつの市あたりなら「年越しそうめん」または「年越しにゅうめん」なんかがあっても良さそうですね。札幌や博多なんかには、「年越しラーメン」を食べる風習はないんでしょうか。でもやっぱり「年越しそば」という響きが不思議としっくりきますね。

年を越す、と言っても、流れる時間はいつもと少しも変わらないはずなのだけど、世界中のみんながその線を飛び越えることに特別な意識を持っています。新しい目標を設定したりして、少しでも幸せな一年を過ごしたいと願います。こたつでテレビを見ながらの人、初詣に行く人、友達とカウントダウンする人。世界中で、いろんな思いで、いろんな年越しが繰り広げられます。みなさんは今年、どんな年越しをされますでしょうか。

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来年の課題

個人的な年賀状にやっと手をつけはじめました。数はそんなに多くないのですが、どうしても書くのに時間がかかってしまいます。恥ずかしながら字がへたくそで、筆ペンでの宛名書きに苦戦しているんです。

10枚くらい書くと、肩がものすごく凝っていました。明らかに変な力の入りすぎです。下手な分、できるだけ丁寧にとゆっくりゆっくり書こうとして、それがかえって余計に仕上がりを不恰好なものにしているんでしょう。スラスラと力を抜いて書ければなあ。けど下手くそはそれができないんです。消しゴムで消すわけにもいかないし、中途半端に力を抜くととてもへんてこな字になってしまいますから、それならいっそ抜かないほうがマシなのです。

字が下手なのを何とかしたいですね。これは来年の大いなる課題ですよ。職業を考えても、下手なんですでは収まりが悪いです。今はそれほど人前に手書きの文字をひけらかすことは少ないですが、将来的には何かと機会が増えるでしょうから、ほんと、早いうちになんとかしよう。

パソコンにも、筆跡がそのまま出るようにならないかなあ。筆でブログを更新できたら字の上達が早いでしょうね。

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恐い夢

寝返りを打つのは背骨を矯正するためだと聞いたことがあります。起きているとき、少しずつ骨格は崩れようとしていて、そのズレを日々の睡眠時間に修正しているんです。よくできてますね。

頭のバランスは夢が整えています。と言うと何をもってバランスとするかが問題になりますが、起きているときの頭に、夢は少なからず影響しています。逆のことも言えるようで、起きているときのことが、夢に影響しています。夢と現実は補完しあっています。

最近、恐い夢をよく見るんですが、僕の現実とどういう関係があるんだろう。いろんな種類の恐さで、追いかけられる類の夢を見る日もあれば、高い所から落ちるものもあるし、また自分が恐い目に遭うだけでなく、誰かを傷つけてしまって後悔したり、残酷なことをする夢だったりします。

何か意味があるんでしょうかねえ。そういう夢を見るっていうことは、現実においてその原因があるはずですし、現実のほうにも夢が何らかの形で影響しているんです。恐い夢だけど、いい方に作用していてほしいなあ。

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魔物がついたような瞬間

このあいだ野球マンガを読み返していて見つけたセリフがあります。ある登場人物が何打席も連続でホームランを打ったときの、実況アナウンサーのセリフです。

「もしかして残りの打席も全てホームランを打つのではないでしょうか!」

「しかしそのまさかが人には誰も一生に一度はあるのです!いうなれば魔物がついたような力が出て全てうまく行く信じられない瞬間が!!」

このセリフ、前半はともかく後半は本当だと思うんです。「魔物がついたような」はひょっとすると行き過ぎかもしれませんが、それでも想像をはるかに超える力でいろんなことがトントン拍子にうまく転がっていくことはあると思います。

ただしそれは、もちろん偶然の働きという場合もあるでしょうが、自分の気持ちの持ち方次第で大きく左右されることなのではないでしょうか。チャンスを受け容れる体勢を、気持ちの中にいつも置いているかどうかなんじゃないかなと思います。広い世の中で自分の周囲は常にうごめいていて、自転車のチェーンキーのナンバーロックがある一つの数字のときに開錠されるように、周囲の状況が自分にとってチャンスとなる瞬間はあるとき目の前に開かれるのだと思います。

チャンスが現れてから動き出したのでは遅く、上手に活かすには常日頃の心構えが重要なのだと思います。自分にも好機はある、ということを心のどこかに持っておいて、しかるべき時の判断に迷わないようにしておきたいです。

熟練の石工が一撃のノミで大きな石を砕くように、射撃の名人が一発の弾丸で数羽の鳥を落とすように、物には核があって、人の時間には機があるのかなって思います。「ここ!」という。思ってはいるのですが残念ながら乗りこなせたという経験はありません。こちらからモノにするには腕も磨いておかねばなりませんしね。

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がんばれ共生者

久しぶりに香川の自宅から更新いたします。

昨日の夕方から熱を出してしまいました。風邪じゃなくって、情けないことに単なる食べ過ぎです。おとといの夜も、昨日の日中も、満腹の上にどんどん飲み食いしたので、お腹が変になって熱が出てしまいました。風邪の発熱ではないので、解熱剤を飲んで一晩じっくり寝たら治りました。意地汚いことをするとバチが当たるのです。

熱の床の中で考えたのは、熱が出るってなんなのだ、ということです。人間の体は一本のパイプです。上に入り口があって下に出口があって、その間を消化器官がつないでいます。そしてその中にたくさんの細菌が住んでいます。人間の細胞は60兆個で、人間の中に住む細菌は3倍の180兆個なのだそうです。

人間というマンションに、180兆の住民が住んでいるイメージでしょうか。一本の木に、たくさんの虫や鳥が巣くっているのにも似ています。だから人間は一人のようで一人ではないんです。

だから、「誰が熱を出してるんだ」っていうことになるんです。熱を出しているのは果たして僕なのか、僕の中の住民なのか。

食べ過ぎて具合が悪くなったのは、体がそれを異常だと感じたからなんだと思います。いつもに比べて多すぎるから早く消化させなければ、ということか、もしくは食べ合わせが悪くて胃腸に良くない物質もたくさん取り入れてしまっていたのかもしれません。どちらにしろ住民にすれば異常なことで、平常に戻さねば、と活発になり、発熱するんですよね。

平常に戻さねば住民たちにとっても人間にとっても良くないわけです。住民たちは快適な平常を取り戻すべく、一生懸命異常と戦ってくれてるんですね。それは僕が戦っているとも言えるけども、僕の中の共生者が戦っているとも言えます。異常が平常に戻るのはありがたいことだけども、それは決して僕が僕だけのために回復させているというだけの意味あいではなく、住民にすれば快適なマンションを取り戻すために活動しているに過ぎないんですよね。

自分の中にいる180兆の住民たちを、上手に飼いならせられればいいなと思います。今回も、すんなり回復することができたのも、そういう意識でいたからかもしれないなと少し思っています。今、僕の中の住民は何を求めているのか。そうすると「早く治りたい」という思いはすなわち「おまえらがんばれ」になるのでした。「それ、薬を飲め」「それ、ビタミンを摂れ、睡眠を取れ」。だから早く治ったのかもな、って思いました。

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年末だなあって思った

その店でないと手に入らない紙がって、とある文房具店に入りました。夕方、日が落ちて街に灯がともりはじめていました。幹線道路沿いの小さな文房具店ですが、一帯のオフィスとも取引があるようで、品揃えはいいし、店内には作業服の職員さんが数名働いています。

外には車が普段より多く停まっていて、店内もお客さんがいつもよりたくさんいました。今年はじめて「あ、師走だ」と思った瞬間でした。店の中に一歩踏み入れると、師走の雰囲気なのでした。お客さんの数が多いっていうのもあるし、店の人もいつもより何人か多かったと思います。僕に応対してくれたのが、その店のご家族でしょうか、エプロン姿のおばあちゃんだったことも一層の師走感を思わせたのかもしれません。

買う人も売る人も、普段とそうたいして態度が違うわけではないはずなんですが、師走の雰囲気が店の隅まで漂っていました。師走のあわただしさって、3月の年度末とはまた違う性質のものじゃないかなと思いました。コートを着て、マフラーを巻いて、買い物に行ったり人に挨拶に行ったり。人間がつくった数字上や形式上のことではなくて、自然の流れの中で無邪気にやってくる忙しさのようなところがあって、だから人情が混ざってるんじゃないでしょうか。

「○○病院で領収書お願いします」

「14号の筆、在庫なかったんかいなあ」

「袋みな別にしときましょかー」

文房具店で行き交うなんでもないやりとりに、人情を含んだ忙しさの電流が流れていました。エプロンのおばあさんが奥から紙を取ってきてくれます。灯りの街に雨が落ちます。作業服の男の人が外のものを仕舞い込みます。こんな感じで「年末だなあ」って思ったの、何年ぶりだろう。

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きれいごと

世界中で音楽活動をされている方とお話することができました。先進国だけでなく、発展途上国、戦争や内紛で苦しんでいる国々でもライブ活動をし、多くの人たちに勇気と感動を与える活動を長年続けられています。

音楽に国境はない、とおっしゃいます。その言葉にはとても力があります。実際に何カ国もの人々に感動を伝えて来られて実感されているし、いつも心の底から信じているということが、波長に乗ってこちらにも伝わるんです。ライブは日本語がベースですが、思いは言葉を超えて伝わるのだそうです。

信じれば伝わる、ということを実践されています。ライブや楽曲でもそうですし、僕にお話してくれたときもそれは同じで、日常生活そのものが「信じる道」なんです。だから言葉に力がありますし、また音楽も国境や言葉を超えることができます。いつも信じる道を歩んでいるからこそ、力のある言葉も使えるし、楽曲にも力を乗せることができるんですね。

信じる道を進むには強くあらねばならないのだということをおっしゃいました。強くあるということはわがままであることではなくて、受け入れることだということでした。近い将来を見ると、それはつらいことで、損であるようなことかもしれないけれども、いずれ巡り巡って大きく帰ってくる、と。信じる道を進むということは、一見すると不安定なことで、怖いことかもしれないけども、信じていればいつかきっと実を結ぶものなのでしょうね。

世の中に「キレイ事」とされるものはたくさんあって、ほとんどは現実性のないもののように言われています。けど、「キレイ事」はすぐには実現できないもので、長い時間を経てキレイであり続ければこそ実現できることだと思います。ほんの少しでも汚れてしまうと、また一からやりなおさなければならない、非常に効率の悪いものかもしれません。効率だけを求めるならば「キレイ事」には取り組まないほうが得でしょうけれど、「キレイ事」を実現できたならば、その苦労を補って余りある素晴らしさを見ることができるのでしょう。いやあ、信じる道を行く人の言葉には、心を震えさせる何かがありますねー。

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霜降り牛は内臓もウマイのか

大阪にいます。森之宮駅近くにホルモン焼きのお店がありまして、先日の夜食べに行ってきました。座席に着くと七輪が運ばれてきて、ジュージューと炭火焼でいただくシステムです。隣のお客さんとの間隔も狭くって、お客さんの話し声やら店員さんの注文を通す声やら肉が焼けるジュージューという音やらが入り混じり、いつも活気に満ち溢れています。

人によって好き嫌いがあるんでしょうけど、おいしいです。それに安いっていうのが嬉しいんですよね。先日もお腹いっぱいで一人2000円そこそこでした。ホルモン焼きじゃなくって焼肉屋さんだったら、同じ量でも値段が全然違ってるでしょうね。

でも何でホルモンは安いんでしょうか。安いってことは、簡単に手に入るってことだと考えてしまいます。肉に関してそのあたりどうなんでしょう。焼肉用の肉もホルモン用の肉も、牛から出るもんですよね。豚であったり鶏であったりもしますけど。とりあえず牛ということで考えると、牛一頭から取れる肉の量って、焼肉用とホルモンとではどっちが多いんだろうなあ。

言ってみれば、内蔵とそれ以外ですよね。どっちが多いんだ。内臓のほうが少ないんじゃないのかなって思うんですが、どうなんでしょう。少ないのに、でも安いんですよね。案外内臓のほうがたくさん取れるんでしょうか。胃はいくつもあるし、腸なんて何メートルもあるんでしょうし。

焼肉用の肉牛にも「○○牛」とブランドがあるように、ホルモンにもブランドがあったりするのでしょうか。ブランドとはいかないまでも、おいしいホルモンの取れる牛と、そうでない牛というのがあるのかなあ。日本の肉牛は、脂が乗って柔らかいとウマイとされますよね。そういう牛のホルモンも、またウマイのでしょうか。

ウマイ肉を持つ牛は、はたして内臓もウマイのか?

食用の内臓についてはあまり焦点を当てられてないように思えますが、そのあたりを知りたいなあと思いました。

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安居神楽

昨日は高知県仁淀川町にてお神楽の練習を見学させていただきました。この地域にはお神楽が数多くあり、地区によって舞いが違います。僕が見せていただいたのは「安居神楽(やすいかぐら)」というもので、今年は12月12日に行われるということでした。

今に伝えられている神楽のほとんどは「里神楽」で